三田菓子サント・アン

 

 

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お菓子の話

「鬼はうち福は内」

イギリス伝統のミンスミートケーキは、ドライフルーツやリンゴ、ナッツなどを砂糖やスパイスと一緒にラム酒やブランデーに漬けて煮込んだミンスミートmincemeatを使います。
ミンスミートは元々イギリスで古くから伝わる冬季のお肉の保存方法の一つです。赤ちゃんが誕生するとそのお祝いに、結婚記念日や誕生日祝い、ウエディングケーキもミンスミートのフルーツケーキが登場し、変わらぬ愛や健康を祝う縁起物として重宝されています。
サント・アンでは赤ワインでフランベした三田牛と洋酒に付け込んだフルーツやナッツを熟成させ–て、じっくりと焼き込み贅沢なフルーツケーキに仕上げています。その三田の肉と三田藩九鬼家に伝わっていた節分行事の「鬼は内、福は内、富は内」を重ね合わせました。



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明治維新前後のブレーンとなった福沢諭吉と九鬼隆義たち

1、節分

節分は立春・立夏・立秋・立冬、各季節の始まりの日の前日のこと。節分は「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。大寒の最後の日であるため、寒さはこの日がピークである。一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(若しくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う。邪気除けの柊・鰯などを飾る。

2、九鬼の節分

摂津三田の領主、九鬼家の節分儀式では、豆撒きの際に「鬼は内~」と唱えるということが平戸城主松浦静山の『甲子夜話』に出ている。
先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守(隆国)に問には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓来りて対座す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々として音あり、人目には見えずと。このことありやと云しに、答に、拙家曾て件のことなし。節分の夜は、主人恵方に向ひ坐に就ば、歳男、豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を「鬼は内、福は内、富は内」といふ。
松浦静山『甲子夜話』二

節分の夜、九鬼家には鬼の姿をした客が来て、小石の入った吸い物を飲むという噂があった。好奇心のつよい平戸城主松浦静山はそのことを直接、九鬼家の当主隆国に尋ねたのだが、隆国はその噂を否定、ただ他家と異なっているのは、豆撒きの際に「鬼は内、福は内、富は内」と唱えることだと答えたという。 「鬼は内、福は内」と唱えるのは、九鬼家代々の伝統であったようだが、豆撒きのときにそう唱える例は、少なくない。世の中には鬼の子孫という家筋はかなり多くあって、「鬼は内、福は内」という豆撒きをする家もすくなくない。鬼の子孫という伝承をのちのちまでもちつたえた家筋は、多く修験山伏の家筋であるが、祖霊を鬼として表象することは、実は一般的であった。それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となり、地獄の牛頭馬頭や餓鬼となってからは「鬼は外」と追われる鬼になった。 
   九鬼隆国は鬼の姿をした客云々の噂を否定したが、九鬼家の豆撒きの唱えごとが「鬼は内、福は内、富は内」であるということは、鬼の子孫であるとの伝承が同家にあるということをおのずから語るものであった。鬼の姿云々はそうした九鬼家の伝承から派生した噂であったのだろう。
      参考文献 五来重『宗教歳時記』角川選書

3、三田の九鬼、綾部の九鬼、四日市の九鬼

「九鬼」の名が歴史の大舞台に登場したのには、水軍大名と呼ばれた九鬼嘉(よし)隆(たか)の存在が大きい。熊野の各水軍を一つにまとめ、戦国時代に活躍しました。これが歴史に出てくる九鬼水軍です。クキは山間の窪地、洞窟を意味する語。
天正6年(1579年)世界史上初めての鉄張りの巨船7艘で当時最強の毛利水軍600隻を撃破しました。その後、秀吉の時代に三重の鳥羽に城を構え、嘉隆の栄華は頂点になりました。しかし、関ヶ原の合戦では一族の存続のために親子で二手にわかれ、嘉隆は西方の石田三成側につきます。そして戦で敗軍となった嘉隆は、鳥羽の答志島で58歳の生涯をとじました。
一方、父嘉隆とともに西方についた守隆の末の弟は、関ヶ原の合戦で敗軍として逃れ四日市の地にたどり着きます。その後、江戸時代には武士を捨て商人となり、水軍としての能力を活かして兵庫県赤穂の塩を東京に販売するなど回船商売を始めたのが四日市九鬼家の始まりです。その後、菜種畑が広がる地で製油業を始め、明治19年に連続式圧搾法で胡麻油の製造を開始し、九鬼の胡麻油が生まれました。
九鬼嘉隆の次男、守(もり)隆(たか)は鳥羽城主として5万6000石を持っていたが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男である九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなりました。守隆の死後も家督争いは続き、この騒動を見ていた幕閣により、九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を失い、九鬼久隆は摂津国三田藩3万6000石に、九鬼隆季は丹波国綾部藩2万石に移されました。この時に九鬼はその水軍力を失い、陸に上がることになりました。

4、明治維新後の旧三田藩九鬼一族

①九鬼隆義(1837年生まれ、摂津三田藩の第13代最後の藩主)
三田藩主に就くと藩政改革を断行、下級藩士の登用、スナイドル銃の使用など藩兵の軍備洋式化を行ないました。戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦い直後から新政府に与して戦います。当初は、大政奉還に強く反対した佐幕派であったが、勤王派に転身。明治になり隆義は川本幸民を通じて江戸の福澤諭吉と親密になり、藩士を慶應義塾に学ばせ、学校運営にも助言するなど晩年まで親密な関係を保ちました。明治2年版籍奉還により藩知事となりましたが、明治4年廃藩置県により免官されると、明治5年(1872年)近代港として発展が見込まれる神戸に居を移し、三田藩士の多くもこれに倣ったのです。生田川付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得ると、この資金を基に1873年(明治6年)幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、白洲退蔵(1)や小寺泰次郎(2)らとともに「志摩三商会」という神戸初の貿易商社を設立しました。成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮、神戸港周辺の都市開発や神戸女学院の前身神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼしました。

(1)白洲 退蔵(1829年生まれ)
福沢諭吉と知遇を得た九鬼隆義は、西洋文明を積極的に取り入れ、藩士に学問を勧め、商業や農業など実業への転身を促しました。家老・白洲退蔵(白洲次郎(4)の祖父)は藩改革に取り組みます。後の横浜正金銀行頭取、神戸女学院の創設者の一人。白洲家は山梨県北杜市白州町が先祖の地と言われている。 退蔵は、幼い頃より優秀で努力家だった小寺泰次郎に目を付け、藩主の許可のもと、士分に取立て、13の農村を担当する奉行にしました。泰次郎は米の増産と農地の拡張に成果を上げ、廃藩後は大阪八幡屋新田の開墾業にも従事します。

(2)小寺泰次郎(1836年生まれ)と相楽園
幕末から明治維新の混乱で困窮する三田藩の財政を立て直すべく、九鬼隆義、白洲退蔵(白洲次郎の祖父)らとともに神戸で事業を起こし実業家として成功を収め、小寺の私邸として建設されたのが相楽園です。1911年に完成、当初「蘇鉄園」と呼ばれていたが神戸市が譲り受け「相楽園」と変えて一般公開されるようになりました。本邸をはじめ多数の建造物は、西洋風の旧小寺家厩舎(重要文化財)以外は全て1945年神戸大空襲により焼失しました。戦後になって神戸市北野町から旧ハッサム住宅(重要文化財)が移築保存され、神戸市の迎賓館施設として相楽園会館、茶室「浣心亭」が建設され、垂水区の船屋形(重要文化財)が移設されて現在の景観に至る。
明治13年に県会議員に選ばれてから長く県会議員を努め、特に得意分野の市街地整備、道路の幅員拡張などを進め、栄町通の改修、山手新道の新設に貢献しました。 泰次郎は福沢諭吉、九鬼隆義の影響を受けて教育熱心で、ふるさとの三田に理想の学校を作るという情熱は子・小寺謙吉(3)に受け継がれました。

(3)小寺謙吉(1877年生まれ 小寺泰次郎の長男)
1897年米国に留学しコロンビア大学で法律、ジョンズ・ホプキンス大学で政治学を学び、ヨーロッパのハイデルベルグ大学、ウィーン大学、ジュネーブ大学で政治・法律学を修めました。1907年欧州から帰国した謙吉は東郷平八郎元帥の媒酌で初代海軍兵学校長中牟田倉之助の娘貞子と結婚しました。1908年衆議院選挙に31歳の最年少記録で当選し、1930年まで6期衆議院議員を務めた。その間1912年に三田中学(現三田学園)を開校した。関東大震災で東京周辺の大学図書館が焼失したことを憂慮し、東京帝国大学・早稲田大学・慶応大学・法政大学・中央大学等に蔵書の寄贈、中でも早稲田大学図書館には36,570冊もの洋書が贈られ、小寺文庫と名付けられています。

(4)白洲 次郎(1902年生まれ)
連合国軍占領下で吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権後は、実業家として東北電力の会長を務め多くの役員を歴任。一時は忘れられた存在であったが21世紀に入り、GHQにも臆することがない従順ならざる唯一の日本人と呼ばれ「日本のプリンシパル」と評価された。日本国憲法誕生にも貢献した白洲次郎と妻の正子の墓は三田市心月院の墓地の一角にあります。


② 九鬼隆一(1852年生まれ)文部官僚で男爵、帝国博物館総長


③ 九鬼周造(1888年生まれ 九鬼隆一の四男)
東京帝国大学文科大学哲学科卒業後。ドイツに渡り新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、満たされずフランスに渡りアンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、強い影響を受ける。ふたたびドイツに、マルティン・ハイデッガーに師事し、現象学を学び、8年間留学。三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代にあたる。ヨーロッパ滞在の中で日本の美と文化に惹かれ「いきとは、垢抜けして張のある色っぽさ」の言葉である『いきの構造』 を発表する。


④ 九鬼隆範(1835年生まれ)
三田市屋敷町に現存している擬洋風建築旧九鬼家住宅を設計しました。幕府が神戸につくった海軍操練所に入所し、勝海舟・川本幸民などに師事。明治に入り鉄道局日本鉄道株式会社に勤務。主に測量の分野で日本の鉄道建設の基礎を築きました。


5、鬼を祀っているので「鬼は外」はない 【番外編】

・仏立山真源寺(東京都台東区) →「福は内、悪魔外」
御祭神の鬼子母神は、他人の子供を襲って食べてしまう鬼神でしたが、お釈迦様が彼女の子を隠し、子供を失う悲しみを諭しました。依頼帰依して子供の守り神となる。

・元興寺(奈良県奈良市) →「福は内、鬼は内」
寺に元興神(がごぜ)という鬼がいて、悪者を退治するという言い伝えがあります。

・稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町) →「福は内、鬼は内」
「鬼王」として「月夜見命」「大物主命」「天手力男命」の三神を祀っています。

・天河神社(奈良県天川村) →「鬼は内、福は内」
鬼は物事を正しく見るとされ、鬼迎えの神事を行う。鬼を迎い入れ節分会。

・金峯山寺蔵王堂(奈良県吉野郡吉野町)→「福は内、鬼も内」
全国から追われた鬼を迎い入れ、仏教の力で改心させます。

・千蔵寺(神奈川県川崎市) →「福は外、鬼は内」
厄神鬼王の神様が鬼を堂内に呼び込み、悪鬼に説教をして改心させ社会復帰させた。

・群馬県藤岡市鬼石地区 →「福は内、鬼は内」
鬼が投げた石でできた町が伝説。全国で追い出された鬼を歓迎「鬼恋節分祭」開催。

・宮城県村田町 →「鬼は内、福も内」
羅生門で鬼の腕を斬りとった渡辺綱が、ここで乳母にばけた鬼に腕を取り返されてしまったため、鬼が逃げないよう「鬼は内」という。

・伝統的な商家 →「鬼は内」
商家では鬼=大荷としてとらえ、大きな荷物が内(家・店)に入らないと商売繁盛につながらないため、「鬼は内」というところが多いのです。

・福は内、かみは内
九鬼一族の本拠地である和歌山県熊野本宮大社。宮司の九鬼(くがみ)家では鬼という字は元々神を意味することから、かみは内と唱えるそうです。

神武天皇が熊野に到着された時、神の使者である八咫烏が奈良まで道案内したというエピソードから熊野三山に共通する「導きの神鳥」と信仰されるようになりました。日本サッカー協会のシンボルとしても有名な3本足の八咫烏です。

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