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お菓子の話

「松風」

「松風」は有馬富士の松林にうちつける風をイメージした、薄焼きのソフトクッキーで中にやわらかチョコレートがはいったお菓子です。
「有馬富士」は日本三古湯の有馬温泉から遠望した山の様を富士山に例えたことが起りのようです。しかし、三田の北東部方面に連なる山々は同じような山容が丹波高地まで続きます。
どの山が有馬富士なのか、なかなか判断がつきかねますね。その独特の姿は、緻密でかたい流紋岩の地形が侵食に耐えて残丘状に残り、小高い山になったようです。



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1、有馬富士 ありまふじ

角山(つのやま)ともいう。三田市の北東部に位置し、花山院の西側に向かい合う山。標高373m。周囲の山地から孤立し、有馬温泉付近からの遠望が富士山に似ているためにこの名がある。
残雪の景観は有馬六景にあげられ、秋には盆地特有の霧が発生し、雲海に浮かぶ島のように見える。
花山法皇の歌として『有馬富士麓の霧は海に似て波かと聞けば小野の松風』が伝えられている。かつては山麓まで松林に覆われていたが、近年宅地化が進行している。
(角川日本地名大辞典 兵庫県)

2、三田に隠棲した法皇

花山法皇(安和元年968年~寛弘5年1008年)は冷泉天皇の第一皇子。第65代天皇。17歳で即位し花山天皇となりましたが藤原氏との政争に敗れ19歳で譲位して花山法皇となりました。
父冷泉帝に似て神経鋭敏、ショックに弱い気質であった花山天皇は、最愛の女御祇子の死にあい、愛惜追慕するあまり意気消沈してまつりごとが疎かになってしまった。
その様子に乗じて右大臣藤原兼家は、娘詮子が生んだ円融天皇の皇子を皇位につけ、外戚として一日も早く政権を牛耳ろうと陰謀を巡らせた。
消沈の花山天皇に人生の無常を説き出家を勧め、夜陰密かに宮中を脱出させて京都東山山科御陵の元慶寺(花山寺)へ導き、逡巡する天皇を強引に入道させたといわれる。
出家し法皇となった後には、奈良時代初期に大和長谷寺の徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承される。
この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(三田市)で隠棲生活をおくっていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。山中で修行する法皇に聞かせようと琴を奏でたという「琴弾坂」「琴弾峠」などが地名として残っており、十二尼妃の墓も現存します。
また西国巡礼の再興者とされており、和歌山・那智山にある青岸渡寺『補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬』で始まる西国三十三ケ所霊場のすべてのご詠歌を詠まれたのは花山法皇であるとされている。お盆等で詠まれるご詠歌は後世に節が付けられたものです。熊野を通して陰陽師安倍晴明ともさまざまな関わりを持っており数多くの説話が残されています。
そのあたりは小説として三島由紀夫の「花山院」にある。

3、有間皇子(有間の変)と花山法皇(寛和の変)

有間皇子と花山法皇には時代こそ違え、共通点があります。いずれも政略に巻き込まれて運命を狂わされた人です。19歳で処刑され人生を終えた有間皇子。同じ19歳で譲位、仏門に入り隠棲しながらも宗教・芸術面で大きな成果を残した花山法皇。当時、有間皇子の説話はすでに古典として語られており、花山法皇自身も自身と有間皇子の境遇を重ね合わせていたのでしょう。

◇寛和の変
 花山天皇が寛和2年(986年)、京都東山山科御陵の元慶寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。

◇有間の変
 有間皇子の有間という名は、父の孝徳天皇が有馬温湯で療養していた時に生まれたからという。その父が、中大兄皇子と対立して孤立し、失意のうちに難波で没したあと、有力な皇位後継者として注目され、皇太子である中大兄皇子に疎まれ処刑となる。

4、有馬六景

有馬温泉は1753年(宝暦3年)、1766年(明和3年)と続けて大火に見舞われて、湯治客が減るばかりでした。
そこで、京都の近衛家を訪ねて有馬の優れたところを世に広めてもらうお願いをしました。
高僧が絵を描き、それに近衛氏や公家が和歌や詩を添えて、「有馬六景」が出来上がりました。
甲斐あって、元の賑やかさを取り戻したと言われています。6番目が有馬富士です。

5、有馬と三田

「兵庫県の有馬」と聞いて思い浮かべるのは神戸市のイメージ。有馬温泉は神戸市北区にある温泉で日本三古湯の一つ。
古くは三田市と同じ旧摂津国・旧有馬郡に属していました。ですから三田の中に多くの有馬が混在しています。
有馬富士があるのは三田市で、一帯は公園として整備されMt富士山の感じとは程遠いのどかな里山です。

6、花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂の六甲比命神社

海抜913mの雲ヶ岩は六甲最高峰931mに次ぐ高所です。あたりは観光のコースからも外れており俗化から免れ神がかった趣があります。
その雲ヶ岩の中の仰臥岩に花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑があります。西国三十三所の中興の祖とされる法道仙人が、花山法皇を仏道に導き共に西国を復興されたのが仏眼上人です。
仏眼上人は叡福寺(聖徳太子の墓所とされる)の僧侶であり、熊野権現の化身と伝わる方です。

7、聖徳太子の継承者たちの活躍と花山法皇

聖徳太子が622年に薨去され、その直後大化改新で藤原鎌足一派は、聖徳太子の思想=国常立命の橘の繁る常世国の理念をさらに発展させた神仏儒の道を推進する勢力の一掃を、表面上は完了させたかのようでした。
しかし、主に修験道・仏教の衣をまとって、聖徳太子の教えを守ろうとする動きも継承されていきます。法道仙人の遺業を継いで役行者が、聖徳太子の教えに基づく活動をされます。六甲山で瀬織津姫と出会った役行者は、後に天武天皇とともに、天河弁財天を祀ります。

斉明天皇2年(658年)兵庫県太子町斑鳩寺のすぐ隣に徳道上人が生誕されます。徳道上人は閻魔大王の命によって西国三十三か所を創始された方です。志半ばでこの事業は途絶えますが、その270年後に花山法皇が大成されます。

聖徳太子の時代の200年後、京都の六角堂の如意輪観音に帰依して仏道に入った丹後の与謝野町香河出身の小萩さん=真名井御前は、淳和天皇の御后として入内しますが、すぐにまた出家され、おそらく瀬織津姫に導かれて、『元亨釈書』の記述に基づけば浜南宮(西宮神社)、廣田神社、甲山を経て六甲山頂へ向い、甲山の山麓に、如意輪観音を本尊とする武庫山(六甲山)神呪寺を空海と共に創建しました。
これが聖徳太子生誕地・天武天皇御陵・役行者生誕地・空海生誕地が一直線で並び、空海生誕地と日前宮・高野山奥の院・天河弁財天が東西一直線で並ぶ理由です。

それから約200年後、今度は花山法皇が熊野権現に導かれ、全国各地の瀬織津姫にかかわる場所を花山院領とされます。
廣田神社と花山法皇の子孫である神祇伯の深い関係もこうして築かれました。静岡県御前崎にある桜が池は瀬織津姫が敏達天皇の御世584年にご出現されましたが、ここも花山院の領地となりました。

桜ヶ池は瀬織津姫と聖徳太子を結ぶ大切なところです。584年、瀬織津姫がご出現されたその後すぐに、桜ヶ池の真西に四天王寺(593年)、真北に善光寺が創建されました。
同じ593年位広島の厳島神社が創建されますが、神殿は北西を向いています。北西の方角に高貴な存在を意識する考え方は古くからあったようです。
四天王寺の北西に六甲山が位置します。四天王寺創建なって、聖徳太子が念仏三昧に入られた時、はるか六甲の山肌に阿弥陀三尊が出現されたことから、そこが御影と呼ばれるようになったそうです。

花山法皇が皇位をわずか2年で離脱させられた後、花山法皇を仏道に導いて、ともに西国三十三所を復興されたのが仏眼上人ですが、出会ったのは何と聖徳太子の御廟を守る叡福寺でした。
仏眼上人はこの叡福寺の僧侶であり、熊野権現の化身とも伝わる不思議な方です。この三十三か所は、地震の活断層のあるところに位置しているものが多い、という話が古くから一部の僧侶の間で伝わっているようです。

(神戸市北区道場太福寺住職のお話と成瀬正透著『神がわたる謎の道』)

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