三田菓子サント・アン

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お菓子の話

牧歌的な三田の最北部をイメージした『牧(まき)の詩(うた)』

風や木々や草原のコーラス、北摂の風の詩が聞こえてくる良質なバターをふんだんに使い、自然の大らかさを名に込めたお菓子です。
日本固有種の草花に囲まれた冷涼の小盆地母子(もうし)その地にちなんだ「牧野(まきの)」の詩(うた)をご紹介します。



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母子

1、春の訪れとともに 萌えいづる ハハコクサ

三田市の最北端にあたる小野地区の北側、武庫川の支流青野川の最上流に位置する。標高450mから500mの高地に母子(もうし)と呼ばれる集落があります。
母子には1400年ほど前の伝説があります。この地を領地として与えられた猫間(ねこま)中納言が、かれんな黄色い花を天皇に献上し、これが毎年続けられたので奉公草と言われるようになったようです。中納言が亡くなってからも、奥方と子どもが献上してきたので、いつしかこの花を「母子草」というようになったのです。これが地名の由来のようです。

2、猫間中納言定頼の「鷹の原」から「母子」へ

その天皇の名は舒明天皇でした。岡本宮(奈良県明日香村)から有馬温泉にそれぞれ三か月間・二度の湯浴みに行幸されました。その時の寵臣のひとりが猫間中納言定頼でした。旅の徒然に三田香下村の羽束山に奉祀されている十一面観音さまの霊験あらたかなることを聞き、奏上したところ天皇は猫間中納言定頼に山麓の数か村を下賜されました。本仏への祭祀の精進と奉仕料として与えたのでした。 その後、領内視察のおりに周りが山で囲まれた原野を発見して、ここを「鷹の原」と名付けました。しかし、定頼は天皇行幸から5年後に不慮の死を鷹の原でとげることになりました。この訃報を都で受けた妻子は取るものも取りあえず、この地に駆けつけ丁重に葬り、その近くに草庵を建て、侘しい生活をおくりながら母と子は追善供養をおこないました。同時に天皇への献上花も欠かさなかったのです。それが母子の名の起こりになったようです。 歴史に詳しい地元の古老に猫間中納言定頼の墓石を教えてもらった。母子に暮らす人々の最も古いご祖先として、旧街道沿いの小高い位置に祭られていた。涼しい地の利を生かした夏ダイコンの栽培や製茶の歴史話しも興味深かった。



牧野富太郎博士

1逸話 母子の花々と牧野富太郎博士

「日本の植物学の父」と呼ばれる植物学者牧野富太郎はその生涯において、50万枚ともいわれる標本を採取し、数多くの新種を発見、命名した植物は2500種以上。また、『牧野日本植物図鑑』など多数の著作を残した近代植物分類学の権威です。
富太郎がその母子を訪れたのは、1936年(昭和11年)9月11日12日74歳の時です。採集した植物は百余種であったといいます。
1862年(文久2年)土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)で生れた富太郎は、幼少時から植物に興味を持ち、10歳より寺子屋へ通い、11歳になると郷校名教館に入り儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学びました。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいました。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、三田藩出身で化学の祖・川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学びました。学歴こそ小学校中退でありましたが、31歳で東京大学の助手に採用されました。50歳から退職まで講師のままであったといいます。

『朝夕に 草木を吾れの友とせり 心淋しき 折ふしもなし 』
牧野結網『朝な夕なに 草木を友とすれば 淋しいひまもなし』
結網は牧野が用いていた号。地元の戸出さん塚本さんに頼まれて書いたものです。

2逸話 「わが姿たとえ翁と見ゆるとも 心はいつも花の真盛」

万年薄給の生活は「火の車」となり学者貧乏の極地。助手時代は15円の安月給で、牧野宅は子供が多く大世帯の上、標本箱で少なくとも八畳二間が必要なので、小さな家に住むわけには行かない。二、三年で借金が2,000円を突破。
借金取りにおわれて家財道具が競売され、食卓すらなくなったことも。家賃が払えず、何度も家主から追いたてを食った。毎年、大みそかになると、本郷かいわいを引っ越す生活が長く続いて、計18回も引っ越した。
借金取りを避けるため家の門に赤旗が出し、借金とりが来ていると妻が赤信号にして知らせた。赤旗をみると、牧野は家に入らず、まわりをブラブラして、帰るのを待ったという笑えないエピソードがあります。

3逸話 「雑草という名の植物は無い/牧野富太郎」

ご自身も生物学者であった昭和天皇の侍従であった入江昭三は自身の著作『宮中侍従物語』内で『真に恐れ入りますが、雑草が生い茂っておりまして随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致します』と言った。
すると、昭和天皇は『何を言っているのですか。雑草という草はないのですよ。どの草にも名前はあるのです。どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるのです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ』とおっしゃったと記述している。
親交があり、天皇陛下に植物学御進講をしたことのある牧野富太郎博士の影響とも言われています。

4逸話 シーボルト

生き別れになった愛人・お滝を偲んでアジサイにHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusaの学名を命名したシーボルトについて、otakusaの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書にのべていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることを突き止めたのも富太郎であります。

5、牧野富太郎と神戸

長池孟は京都大学法学部に通う25歳の学生でした。1891年、神戸市兵庫区生まれ。早くして資産家の長池家に養子に迎えられ、莫大な財産を引き継ぐことになる。牧野が窮乏しているという新聞記事(朝日新聞、1916年12月18日)を読み、標本を買い取る。
条件は10万点の植物標本を3万円で買取り、それを牧野に寄贈する。牧野家へ月々若干の援助をする。会下山(えげやま)の正元館に標本を保管し、新たに植物研究所を設立する。毎月1回神戸に行って研究する。
その牧野富太郎は神戸市兵庫区にあった池長植物研究所を拠点に活動し、兵庫県全域に残した足跡も大きい。とくに六甲山をこよなく愛したようです。研究所跡地は現在の会下山小公園に碑が残ります。
六甲高山植物園は市街地から車で一時間ほどの六甲山山頂近く標高865メートルにある。年間平均気温9度という自然環境の中で、数多くの花が咲く。なお、六甲高山植物園は昭和8年5月に牧野富太郎博士の指導により開設…と、されていますがどの程度の関わりであったかは定かではありません。

6、兵庫県花「野路菊ノジギク」

野路菊は日本固有の種で、牧野富太郎博士が1884年(明治17年)11月に高知県吾川郡吾川村(現:仁淀川町)仁淀川沿いの路傍で発見し、命名したそうです。それから時を経た1925年(大正14年)に牧野博士は、現在の姫路市大塩に来てノジギクの大群落を発見しました。以来、大塩の地名は日本一の群落地として全国に知られ有名になったとのことです。戦後、塩田閉鎖と田畑荒廃で大塩のノジギクは雑草に飲み込まれて一度は消えてしまったそうです。しかし、大塩の人々が当時の姿を取り戻そうと町民運動を展開し見事 甦ったといいます。
野路菊(ノジギク)は海に近い山野に自生する野生の菊で、10月下旬から11月下旬頃に白や黄色の花を咲かせます。兵庫県は野生の野路菊が生育する北限であるといわれています。兵庫県では1954年(昭和29年)に野路菊の花を県の花と定め、野路菊の保護、保全の取組みが行われています。

(参考文献:神戸新聞出版センター牧野富太郎と神戸、自伝牧野富太郎、三田市史など)

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