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お菓子の話

『花折の道』

女官たちが野に咲く花を折り、集めて歩いたといわれる道「花折」。 乙女の心優しさをイメージして、白餡をやさしく包んだお菓子です。

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野の花を摘み仏にたむける。日本人にとって何気ないその行為には、古からの人をもてなす想いや感謝の気持ちも静かに込められています。それが花折れです。古くからある折り紙や切り紙も花への思いを込めながら、姿の美しさを楽しむ、ものを折る、ものを包むそれらのおこないも、やさしさのあらわれですね。

白餡は大手亡豆という豆で、種皮の色が白い豆です。大福豆や白花豆と並んで、通称白インゲン豆と呼ばれることもあります。明治時代に北海道の十勝地方で栽培されたのが始まりです。手亡(てぼう)の名前の由来は、普通の豆は蔓がのびたら支柱にする「手竹」が必要なのですが、手亡は半蔓性だったので、この支柱がいらなかったことから、「手竹のいらない豆」すなわち「手亡豆」になったようです。



散策にお薦めの「花折の道」

北摂の山々の中でもその尖った山容が鯨のようで、ひときわ目をひく標高524mの羽束山(はつかさん)。山麓に三田城鬼門擁護の祈願所だった香下寺があり、山上にもお堂とお宮があるためか、信仰の空気の漂う山です。

その香下の観音様に至る道は「香下道」「花折道」と呼ばれていました。字古川から左に芝居谷~花折坂~花折道、そして香下の観音さんまでは一本道。三田や神戸北区の道場などの人々が列をなして、参詣をした道と伝わります。道中で樒などの花を手折りした道が名の起こりといわれています。 徒歩では長くなるものの三田駅から山田貯水池の右手を回るこの道は人や車の往来も少なく、まるで桃源郷のような佇まい。こっそりと、ハイライトは香下本郷新田あたりです。

『秋はつる はつかの山の さひしきに 在あけの月を たれとみるらん』
(新古今和歌集・大江(おおえの)匡房(まさふさ)/小倉百人一首では前中納言匡房)

もう一つの「花折の道」

香下から北の羽束川沿い、山間に開けた三田市高平地区の鈴鹿があります。そこに圃場整備事業で1984年5月8日に掛け替えられた花折橋があります。下里から市内唯一の式内社である高売布神社に参拝するために渡った橋です。コンクリート橋と化しましたが、この旧参道もまた花折の道ですね。

「花折り始め」という言葉

西日本では高花(たかばな)夏花(げばな)と称して、竹さおの先にシャクナゲ、ツツジ、シキミ、ウノハナなどその時期の花を束ねて、庭先や木の枝に高く掲げる習俗があります。兵庫県氷上(ひかみ)地方では「花折り始め」といって、他家に嫁いだ子女が実家の墓参する日となっています。また宝塚市や三田市では「花施餓鬼」(せがき)といって、先祖を供養します。
卯月八日(現在では5月8日)の民俗では、とくに春山入り、花立て、祖先供養が目立ちますが、本来は家々で死霊・祖霊を迎え、まつる行事が重要な位置づけのようです。

東北の平泉に残る 延年の舞「花折」

日本には古くから延年の舞と言うのがあったようです。大寺で法会の後に一山の大衆・稚児・遊僧など諸芸に堪能な者達によって催された遊宴・歌舞の総称を延年(えんねん)と言われました。平安時代中期から 江戸時代まで盛んに行われたらしく全国の大寺にはその記録がたくさん残っているようです。

   仏を称え 寺を誉め 天長地久を祈り 千秋万歳を寿ぎ。

最も盛んに行われていた興福寺の延年は江戸時代に入ってからも盛んに行われましたが、元文二年の維摩会(ゆいまえ)を最後に廃れてしまいました。しかし、岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)の常行堂のお祭りにはほぼ完璧に近い形で延年が残されていたというものです。
花折はその中の演目で、舞楽風の稚児舞で、春の息吹を感じさせるもので、四方の山河を愛でて舞います。

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