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お菓子の話

ビールケーキ「こうみんさん」

川本幸民にちなんだフルーツケーキ

日本で初めてビール作りに成功した三田出身の科学者・蘭学者『川本幸民』にちなんだフルーツケーキで香り付けにビールを使用しています。小さなお子様も召し上がっていただけるように自然な香りに仕上げています。添加物を使用しない体に優しい素材で作り上げた逸品です。

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日本化学の祖 川本幸民ものがたり

ペリー黒船来航

嘉永六年(1853年)提督ペリー率いる黒船四隻が浦賀に来航した。その偉容に、幕府はもちろん日本国中が上を下への大騒ぎになった。泰平の世に慣れすぎた幕府にはこれといって対応策もなく、苦慮した末、幕臣、諸藩を問わず対応策を申し出るよう求めた。このとき、いよいよ自分の出番が来たと立ち上がったのが江戸で活躍する蘭学者・川本幸民だった。  
幸民は長年の蘭学の研鑽から、いたずらに西洋をおそれることなく、真正面からその知識に取り組むことが肝要だと理解していた。黒船に度肝を抜かれ、右往左往しているのは西洋の航海術や艦船の構造などを知らないからである。もし仕組みをよく理解し、自分たちにも建造可能だとわかれば、落ち着いて対応策も考えられるようになるはずだ。
幸民はこのころ、江戸の薩摩藩士向けに西洋の先端技術を講義していたが、この講義録をまとめて急遽発刊することにした。安政元年(1854年)に刊行されたその著書『遠西奇器述』は、蒸気船の構造、写真術、電信などについて詳細に記述し、西洋の科学技術を理解するのに最適だった。この年、ペリーが再来港し日米和親条約が締結されたこともあり、諸藩は国防の参考にしようと争ってこれを求め、大ベストセラーとなった。
『遠西奇器述』は薩摩藩の洋式軍艦「昇平丸」の建造にも参考にされた。この十年ほど前から、薩摩藩主島津斉彬は幸民に、西洋の軍備や兵器、電信機、写真機、製塩法などに関する文献の翻訳を依頼してきた。この積極的な情報収集のおかげで、薩摩藩はペリー再来日の翌年には外輪式の蒸気船「雲行丸」を完成させることができたのである。
蒸気船を見てすぐにその原理と構造を理解し、たちまち自力で製造してしまった日本の底力は西洋列強を驚嘆させた。この国はこれまで植民地化してきたアジア諸国とは違う。そう痛感した列強は日本の植民地化を断念したのだった。その意味で彼の『遠西奇器述』は救国の一書だったといえるだろう。

島津斉彬

島津藩第28代藩主。 (1809-1858)。幕末きっての名君。西郷隆盛、大久保利通らを登用し、公武合体、幕政改革を訴えた。「集成館事業」と呼ばれる富国強兵・殖産振興政策を進め、反射炉・溶鉱炉の建設、西洋式帆船・軍艦の建造、大砲・ガラス・アルコールの製造、ガス灯・写真・電信の研究など、多くの分野でめざましい成果を挙げた。これを技術面で支えたのが幸民だった。

江戸留学

川本幸民は文化七年(1810年)、摂津国三田藩の足軽町に七人兄姉の三男(末子)として生まれた。三田藩は現在の兵庫県三田市を領有する大名で、川本家は代々その藩医を務めていた。
幼名敬蔵は幼い頃から好奇心旺盛で、知的天分に恵まれていたが、数え年十歳の時に父と死別。その後は長兄周篤の庇護のもとに育てられた。父の死と前後して藩校造士館に入り、漢学や武術を学んだ。向学心に富み、負けず嫌いの彼は一心不乱に勉強に励んだ。成績は終始抜群で、三田藩始まって以来の秀才と称せられるようになった。
しかし末子の幸民には学業に専念する余裕はなかった。少しでも早く独り立ちするため彼が選んだのは家業の医師だった。十八歳の時に漢方医村上良八に入門した幸民は、ここで二年間漢方医学を学んだ。その間に蘭方医学に関心を持ち、蘭方医になる希望を抱くようになったが、兄に猛反対されて挫折した。だが、その後に思いがけない転機が待ち受けていた。
長兄の周篤が参覲交代の藩主に従って江戸詰めとなり、幸民も同行を許されたのである。兄のはからいと、それを認めた藩主九鬼隆国の理解と愛情によるものだった。
隆国は幕末の名君として知られ、藩校造士館を開き、京都からすぐれた陶工を招いて伝統の三田青磁を復活させ、三田藩中興の祖といわれた。

九鬼隆国

摂津三田藩第10代藩主。 (1781-1853)。小藩ながら勅使接待役や奏者番などの役職を務め、城主格に昇格。また藩校の造士館を発展させ、伝統の三田焼を復活させるなど、三田藩中興の祖とうたわれた。幸民のよき理解者として一貫して支援し、幸民もその恩に報いるべく励んだ。

 

酒が災い

江戸へ出た幸民は高名な蘭方医足立長集の門をたたいた。これで思う存分蘭学を学べると思った矢先、兄が急病にたおれ、そのまま亡くなってしまった。親族は幸民に家督を継がせようとしたが、彼は学問途中だからと固辞し、兄の三歳の子に家を継がせて勉学に邁進した。
その学問的才能と刻苦精励にいたく感心した長集は、一年後、新たな師として、蘭方医仲間の坪井信道を紹介した。信道は当時、江戸で伊東玄朴と名声を二分し、その学塾では最先端の蘭方を学べると評判が高かった。
このとき、学塾で幸民と机を並べたのが、のちに適塾を開いて福沢諭吉ら維新の人材を輩出する緒方洪庵である。ふたりはよきライバルとしてまた親友として、終生にわたる友情を結んだ。
ここでもたちまち頭角をあらわした幸民は師から水戸藩医の青地林宗に紹介され、彼が著した『気海観瀾(きかいかんらん)』の増補改訂を依頼された。この書は体系的に物理学を紹介した日本最初の物理学書である。その重要な書物の改訂を二十代前半の幸民がまかされたのだから、彼に対する期待がいかに大きかったかがわかる。
研鑽を積むこと四年余り、学業は大いに進んだが、隆国の意向もあっていったん三田に帰った。その後、隆国の許しをえて再び江戸にのぼり、芝露月町で開業した。その暮れには、坪井塾時代に知り合った青地林宗の三女秀子と結婚した。時に幸民二十六才。まさに順風満帆の人生だった。
ところが好事魔多しとか。新婚わずか二か月目のある夜、幸民は酒席でのいさかいで刃傷沙汰を起こしてしまうのである。この事件については記録がなく、真相は今もわかっていない。幸民は酒を好んだが、つねに節度をもって接していた。藩の上役を切り付けて怪我させるなどにわかに信じがたいが、幸民が泥酔して刃物をふるったという話はたちまち藩内に広まった。
隆国の配慮によって重大な処分は免れたが、幸民は江戸所払いのうえ蟄居謹慎を命じられ、新婚の妻を残して相州浦賀でひとり淋しく過ごすことになる。若気のいたりとはいえ、学問でも私生活でもこれからという時の痛みは大きかった。
鬱々たる日々を送りながらも、幸民の学問に対する情熱は衰えなかった。この間に『気海観瀾』の増補改訂を仕上げ、蘭学者宇田川榕庵の化学書『舎密開宗(せいみかいそう)』で化学を学び、西洋の科学技術を紹介する『遠西奇器述』にも着手した。五年後、ようやく許された幸民は江戸に戻り、その後、藩医に復帰することができた。

 

 

タンパク質、漢字で書けば蛋白質。 「蛋」 って一体何を意味する?

蛋白質以外の言葉で 「蛋」 という漢字をほとんど使わないので、その意味はあまり知られていないのではないでしょうか? そもそも蛋白という言葉がはじめて使われたのは、江戸時代は幕末の 1861 年、幸民 がドイツの化学書 『化学の学校 (Schule der Chemie)』 のオランダ語版を和訳して著した 『化学新書』からである。
 幸民は医学を修めるかたわら、その基本にある物理学や化学に対しても並々ならぬ探求心を示した。それを培ったのが『気海観瀾』の増補改訂作業だった。蟄居中に着手したその作業を通して、幸民は物理学や化学が医学とは別に研究すべき重要な学問分野であることをあらためて認識させられた。
幸民が義父との約束を果たして『気海観瀾広義』を上梓したのは嘉永四年(1851年)のことだった。これは『気海観瀾』が薄い一巻本であるのに対し、十五巻全五冊という大部の書物であり、実際にはまったく別物とよんでよいものだった。内容的にも物理学を中心に、化学、動物学、植物学、鉱物学、天文学など幅広い分野の知識を網羅しており、日本近代科学史上における記念碑的な著作といえるものだった。これによって気鋭の洋学者川本幸民の麗名は大いに上がった。
幸民の科学者としての活躍は化学の分野にもおよんだ。
蕃書調所に就任した安政三年(1856年)には『兵家須読舎密真源』を上梓した。これはドイツ人モリッツ・マイヤーの化学書を翻訳したものである。さらに同じドイツ人シュテックハルトの化学入門書「化学の学校』をその第二版をもとに翻訳し、さらに第三版を入手したため補注を加え、万延元年(1860年)『化学新書』として出版した。
元素、化学反応、記号を用いた化学式など、当時の西欧化学の最新知識を詳述した本書の影響力は絶大で、わが国近代化学の礎となった。
ここで注目すべきは、現在の化学にあたる用語の訳語が、「舎密」(せいみ)から「化学」に変わっていることである。化学を舎密と訳したのは前出の宇田川榕庵である。彼がウィリアム・ヘンリーの化学入門書を翻訳した『舎密開宗』出版した際に、その語を初めて用いたのである。舎密はオランダ語で化学を意味する”Chemie”の発音(「シェミー」)からとったものである。以後、舎密が一般的に化学を指す用語として用いられてきた。
幸民がなぜ舎密を化学と改めたかについては諸説ある。一説には中国の翻訳書の影響ではないかと指摘されているが確証はない。いずれにしても彼が最初にこの用語を用いたのはまちがいない。この後、舎密と化学は明治初年まで併用されたが、やがて化学が定着していった。幸民が初めて使った科学用語には、ほかに「蛋白」「大気」「合成」などがある。
幸民が科学者としてすぐれていたのは、たんに西洋の科学技術を理論的に紹介しただけでなく、それをもとにみずから実験を行ったことである。

ビールづくり

幸民は生涯で三度も大火に会い、その都度家を焼け出されている。その幸民が化学知識を駆使してつくったのがマッチだった。火難の相があるとしか思えない幸民が発火道具をつくったのである。
このマッチについてはおもしろいエピソードが残されている。
嘉永元年、幸民がある裕福な商家に往診に出かけたときのことである。その主人が西洋のマッチについて言及し、冗談のつもりで、もしマッチを作れたら五十両を与えると言った。負けず嫌いな幸民はこれを受けてマッチの製作にとりかかった。
当時のマッチは材料に発火点の低い黄燐を使っていたため、製作は爆発の危険と隣り合わせだった。しかし幸民はひるまずに実験を重ね、ついに試作に成功した。商人の前で、マッチに火をつけて見せると、あれは冗談だと商人はいって逃げようとしたが、謹厳な幸民は許さなかった。その後、この話があちこちに広まったため、商人は引っ込みがつかなくなり泣く泣く五十両を支払ったという。
 もうひとつ幸民がその化学知識で挑んだのが写真術だった。写真の始まりは1830年代、フランスの画家ルイ=ジャック・ダゲールが保存可能な写真を発明し、「ダゲレオタイプ」と名づけたのが最初とされている。ダゲールの写真術は日本では銀板写真とよばれたが、複製ができないことや、撮影に長時間かかることなど、欠点も多かった。その後、イギリスのフレデリック・アーチャーがガラス板の上にコロジオンという薬剤を塗布した湿板写真を開発した。複製が可能で、撮影や保存にも適したこの技術は急速に普及した。
幸民は『気海観瀾広義』中で銀板写真に言及しているが、嘉永四年(1851年)には実際に銀板写真の撮影に挑戦し、見事これに成功した。機材から現像液、定着液まですべてが手製だった。これをわが国におけるもっとも早い写真撮影とみなす研究者もいる。

 幸民の実験精神は、火と並んで彼の人生に縁のある酒づくりにも示された。黒船来航の年、幸民はペルーが持って来たビールを自分の手でつくろうと思い立ち、芝露月町の自宅に炉を築いて試醸にとりかかった。その年の九月、ビールづくりに成功した幸民は、蘭学者を招いて盛大な試飲会を開催した。それはまさに西洋を飲みほす気概を示したものだった。この試醸によって幸民はビール醸造の始祖という栄誉もになうことになった。

 

薩摩藩の近代化、集成館事業から維新へ

こうして名声があがった幸民には地位があとからついてきた。安政三年(1856年)には、幕府が設立した蕃書調所という洋学所の教授手伝に任命され、二年後には教授職に昇進した。名実ともに日本最高の洋学者の地位にのぼりつめた。 
その翌年、幸民は島津斉彬の下で仕事をしたいとの希望をもって薩摩藩に籍を移し、その近代化事業(集成館事業)に技術面で協力した。
このころ大老井伊直弼による安政の大獄が起こるなど、世相は殺伐とし、また攘夷思想は洋学者を敵対視、幸民の身辺にも危険がおよんできた。それまで政治的な発言は控えてきた幸民だったが、政治に関心がなかったわけではない。仕事柄海外の情報には誰より精通していたし、持ち前の透徹した理性と判断力によって、日本の行く末を正確に見抜いていた。それがわかるのが福岡黒田藩の武谷椋亭(りょうてい)に宛てた書簡である。
この中で幸民は、旧弊な政治を改革するために九州の雄藩が団結し、西国の力をあわせて、政府の悪習を改革しない限り、庶民の苦しみを救う方法はないと書いている。さらに次の将軍候補として名があがっている一橋慶喜をその器ではないと批判している。当時の情勢下、幕臣による幕府批判は、よほどの覚悟がなければできなかった。幸民の危機感がそれほど強かったということだろう。
晩年の幸民に関して特筆すべきは、英語への取り組みである。今や世界を制しつつあるのは英米であり、これからは英語に時代になると考えた幸民は、早くから英語を独力で学んでいた。大政奉還後の慶応四年(明治元年、1868年)、ここが潮時と見切りをつけた幸民は帰郷し、子息清一とともに英語と物理化学をおしえる塾を開いた。彼の名声をしたう入塾希望者は全国から殺到したが、開講からまもなく清一が維新政府から出仕を求められて上京することになり、幸民も同行した。しかしその翌年、病を患い、闘病ののち自宅で死去した。享年六十一才。西洋科学の研究紹介とその実験応用に捧げた生涯だった。
師信道の養子坪井信良は、幸民の人柄を、「清廉潔白で一本気で、信念をもって物事にあたる。その言葉は信頼のおけるもので、言い出したことは必ず実行する。交わりは広くないが、いったん親しくなれば長く、温かいつきあいを保つ」と記している。
幾多の困難を乗り越えて、医学や科学技術の探求を貫いた信念の人幸民は、また家族や友を愛し、郷土を愛し、藩を愛し、日本を愛した愛の人であった。
2010年(平成22年)、生誕200周年を記念して幸民が醸造したビールを当時に近い製法で復刻し同年6月に数量限定で販売された。幸民の訳書『化学新書』などを参考に小西酒造の協力で当時の原料や醸造法で醸造された。
平成23年に日本学士院所蔵の幸民資料14点が「第二回日本化学遺産」に認定された。院には川本家から寄贈された幸民と長男清一の資料が所蔵されている。それらのうちから化学関係の14点を化学遺産として認定した。これには自筆書き込みのある『化学新書』稿をはじめ、訳稿、翻訳メモのほか、自製の写真機で撮影したと推測される幸民と妻秀子の写真も含まれ貴重な化学遺産である。

 

参考文献

司亮一『蘭学者川本幸民』(神戸新聞総合出版センター、2004年)
柳田昭『黒船なにするものぞ』(朝日ソノラマ、1998年)
川本裕司・中谷一正『川本幸民伝 近世日本の化学の始祖』(共立出版、1971年)
『新世紀ビジュアル大辞典』(学習研究社刊) ほか

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